無伴奏組曲 《博物士》

unaccompanied suites -genesis-
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Friday, July 29, 2005

symphonic=rain

シンフォニック=レイン』 狂想曲

http://d.hatena.ne.jp/genesis/20050729/p1 からの転記


http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050724/p2

 「内ゲバって,こういうふうにして起こるんだなぁ」と思った『シンフォニック=レイン』討論会(と,その後)。

#genesis

 「すべてのシナリオ分岐を見渡す「メタな視点」を認めるのが「多世界解釈モデル」なので。▼このモデルを導入すると,hajicさんの解釈を《第10のシナリオ》として打ち出す可能性はあると思う。私は,《フォーニ・シナリオ》が異質なものであることについてはhajicさんに同調します(唯一,音の妖精の存在を“信じる”ことによって成立する分岐だから)。でもhajic仮説は,これとは別の仮定を信じることによって成り立っているものなので,これを第9 シナリオの正当な解釈とするには躊躇するわけなのです。▼ 簡単に言うと,フォーニ・エンド後もアルはやっぱり死んでいました(y/n)が,hajic解釈への分岐点なわけです。[n]を選べば原典の文言通りの受け止め,[y]を選べばトルタ至上主義(笑)なhajic解釈,[y]も[n]も両方あり得るだろうとすればメタを気取る私の態度になります。」

http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050724/p2#c

 読み返すと,多世界解釈モデル*1の理解と当てはめがダメダメ……。

 ただ,誤解を修正しておくと,このモデルをテクストの読み方として用いる場合,世界の遠近という概念はありますし,重なり合う象限もあります。SFの「パラレル・ワールド」が語源なので並行世界という表現をしていますが,hajicさんのいう「階層的」な読みを否定しているわけではありません。ゲームの解釈において並列世界という場合,東浩紀が『動物化するポストモダン』で理論化する際の柱となった『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』を想起していると思うので。

 フォーニエンドと真トルタは、それらが並立しているが故に、絶対に並立不可能なのです。二つが同時に成り立つ以上、その両方は同時に否定されなければならない。

http://d.hatena.ne.jp/hajic/20050729/p1

 うん,ようやく擦り合わせが可能な程度に用語の差異が収斂してきました。

 ここで説示されていることは,ほとんどに同意するのだけれど,「両立し得ないシナリオを両方同時に否定されなければならない」という点において,私の態度と異なります。否定した結果,否定されたシナリオは消滅するのではなく,止揚(アウフヘーベン)される。私がhajic解釈を《第10のシナリオ》と言うことの意味は,テクストの中には存在しないが《読み手》の中には存在する可能性があるだろうということです。

 hajicさんのこれまでの論旨だと,アリエッタ・シナリオを否定することを強調するあまり,止揚させるという道筋が見えなかった。そこが,他の読み手に誤解を与えた原因でしょう。

 『シンフォニック=レイン』の9つのシナリオの中には「完全な結末」が存在しない。その先に《第10のシナリオ》を置くかどうかの分岐が《信じる》か否か,です。さらに,この点では《作り手=シナリオライター》も信じてはいないでしょう。このスイッチは《読み手》の中にある。これに先だってhajicさんが

機械には、「信じる」という行為はできない

と述べているのは,多分に誤読です。

 ただ,ここでまた訣別する可能性があります。私は,信じていない。もし《信じる》とするならば,という仮定の上に立っています。以前,何も起こらない《第1シナリオ》であればhajic解釈を取り入れることが可能ではないか,と述べたことがありました。あれは,私が《信じる》ことを妨げている要因――1月20日午前9時――が,《第1シナリオ》の場合には存在していないからです。

 なお,

「真トルタを真の結末だと主張しているように一般に理解されている」

という場合の「一般人」に私を含めてはなりません。私を「hajic教のガブリエル」とでも呼んでください。堕天してウリエルになるかもしれないけれど(笑)

*1:この用語法は,量子力学的。言及先で「確率」というのが出てくるのは,「シュレディンガーの猫」に引っ張られているからだと思う。

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